見えない敵と戦った3650日の真実
第1章:暗転 救急外来と「変な意地」
10年前の4月。市議会議員として初当選を果たしてから、まだ9ヶ月。私は「1年生議員」として、この街のために毎日を全力で駆け抜けていました。
打ち合わせの最中でした。経験したことのない腹部の激痛が、突然、全身を貫きました。脂汗が止まらず、意識が遠のくほどの痛み。
隣にいた仲間が「救急車を!」と叫んだ瞬間、私は首を横に振っていました。
「市民の皆様に選んでいただいた身で、腹痛ごときで貴重な税金を使うわけにはいかない」
陣痛のように寄せては返す波のような痛みの中で、私は妙に冷静でした。痛みの引いた隙に自力で車に乗り込み、夜間救急へ向かいました。
その夜は痛み止めの点滴を受けて帰宅しましたが、これが「地獄の3週間」の幕開けでした。
今思えば、あの「変な意地」こそが、私が最初に立ち向かわなければならなかった敵だったのかもしれません。

10年前の4月6日
この日に救急のスタート
第2章:専門知識という「盲点」
翌日の外来で、医師から大腸内視鏡検査を勧められました。しかし私は、またしても首を縦に振りませんでした。当時の私には、根拠のない自信がありました。
議員になる前、私は長年インストラクターやパーソナルトレーナーとして活動し、美容の職業訓練学校を立ち上げて解剖生理学を教えてきました。
20年以上のトレーニング歴を持ち、人よりも自分の体と深く向き合ってきた自負がありました。
「私は健康オタクだ。重大な病気などするはずがない。これはきっと疲れか、一過性のものだ」
自分の体と「会話」できるという自信が、逆に目を曇らせました。「今はこの程度なら耐えられる」と数値を読み違え、体が発していたSOSを、知識でねじ伏せようとしていたのです。専門知識は、時として最大の盲点になる。この病気は、まず何より、その事実を私に教えてくれました。
第3章:カスカスになった体と、2リットルの下剤
抗生物質をもらって帰宅しても、症状は悪化するばかりでした。当然です。潰瘍性大腸炎は細菌の感染ではなく、自分自身の免疫が暴走する難病。抗生物質など効くはずがありませんでした。
水は飲める。でも、食べると腸が動いて激痛が走る。「食べるから痛いんだ。食べなければ痛くない」。そんな極端な結論に行き着いた私は、3週間近く、まともな食事を口にしませんでした。素麺を数口すすっても、うどんを少し箸でつまんでも、すぐに後悔するほどの痛みが腹の底から這い上がってくる。一口食べるたびに、食べたことを悔やむ日々。
「体の栄養が、文字通り消えていく」。そんな感覚でした。体重は5キロ以上落ちました。鏡の前に立つと、生気を失い「カスカス」になった自分がいる。そのやつれた顔を見つめながら、これが本当に自分なのかと、しばらく現実感が持てませんでした。
診断のための検査でのみ込んだ、あの2リットルの下剤。最後の一杯を飲み干した時の吐き気と、暗いトイレに一人でいる孤独感は、10年経った今も、鮮明によみがえります。

画像はイメージです
第4章:11歳の息子への「ごめんね」
この3週間で、何よりも心が痛んだのは、当時11歳、小学5年生だった息子の存在でした。
私はシングルマザーです。心配をかけたくなくて、家では必死に「いつものママ」を演じ続けました。でも、こどもの感性というのは、大人が思うよりずっと鋭い。
家事が手につかず、夕飯も作れず、返事もうわの空になっていく母親の異変を、彼はきっと、ずっと前から感じ取っていたはずです。
ついに限界を迎え、息子を実家に預けることにしたあの日のことは、10年経っても忘れられません。
息子は、何も言いませんでした。「なんで?」とも「嫌だ」とも言わずに、ただ静かに、切なそうに私を見つめていました。
「僕が家にいると、ママが大変なんだ」
11歳の少年に、そんな重たい理解をさせてしまった。それが、どれほど残酷なことだったか。息子を送り出した後、ぐちゃぐちゃになったリビングで、私は声を上げて泣きました。病気の痛みよりも、母としての無力感の方がずっと深く、胸に刺さっていました。
第5章:正解が「毒」になる時【独自の体調管理術】
ようやく診断がつき、適切な薬が処方された時、3週間に及ぶ激痛から解放されました。
そこから10年。現在は寛解状態を保ち、病気前と変わらぬエネルギーで活動できています。
しかし、そこに至るまでには「世間の健康常識」を疑い、自分の体に合う正解を探し出す試行錯誤がありました。
例えば、健康の代名詞とされる「食物繊維」。実は、この病気においては時期によって使い分けが必要です。
現場を守るための「引き算」の体調管理
また、議員としての職責を果たすため、日常生活ではさらに踏み込んだ対策を講じています。特に絶対に穴を開けられない本会議や視察がある時期は、食事を極限までコントロールする「戦い」の期間です。
本会議の数日前からは、お腹を刺激しないよう食事を素うどんや素麺に切り替え、刺激物は一切断ちます。
前日からは水分摂取にも細心の注意を払い、当日の朝からはほぼ絶食に近い状態で臨みます。特に一般質問が続く日程や1泊2日の視察中は、食事量を未就学児ほどにまで落とすことも珍しくありません。
この期間は、鏡を見るとクマができるほど痩せこけてしまうこともあります。しかし、それらの重要な日程が無事に終了すると、堰を切ったように反動の食欲が復活します。
食べては絞り、終われば補給する。このサイクルを繰り返すことで、結果として体重の増減はプラスマイナスゼロに保たれています。
こうした極端な調整を支えるために、新たな習慣も取り入れました。腸内環境を根本から整えるため、「生酵素」を毎日摂取するようになったのです。
そのおかげか、現在はすこぶる好調な波を維持できています。
もちろん、これも今の私の体に合っているという、一つの「解」に過ぎません。
運動習慣は継続しつつ、食事と栄養を徹底的に学び直したこの10年は、私にとって「自分の命の責任を自分で持つ」ための大切な期間でもありました。
世の中の正解が、自分の体にとっての正解とは限らない。そのことを身をもって知った今の私は、病気の前よりもずっと、自分の体との対話が上手くなっています。

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第6章:見えない痛みを知る、議員としての原点
この経験が、私に議員としての大切な視座を与えてくれました。
行政の窓口は、元気な人間にとっては「たいした手間ではない」手続きが、体の不自由な方や療養中の方にとって、いかに高い壁になっているか。
受給者証の更新、主治医の意見書、複数の書類をそろえて窓口へ出向く、その一つひとつが、体力を削る戦いであること。病気になって初めて、私はそれを、頭ではなく体で理解しました。
内蔵は、目に見えません。解剖生理学を学んでいても、20年トレーニングを続けていても、自分の腸の中を見通すことはできないのです。
だから、今の私には強く伝えたいことがあります。
「嫌だな」と思う検査こそ、積極的に受けてください。「おかしい」と感じたら、意地を張らずに、助けを求めてください。
知識があるほど、プライドがあるほど、人は自分の体の声を、知識でねじ伏せようとしてしまいます。私がそうだったように。
結びに:私らしく、次の10年へ
この10年は、単なる闘病の記録ではありません。病を知ったからこそ見えてきた景色があります。
行政サービスのすき間で苦しむ方々の声、家族に心配をかけまいと一人で抱え込む方々の孤独、「普通の顔をして生きている」その裏にある、見えない痛み。
それらに、以前より深く、寄り添えるようになりました。
「この経験があるからこそ、守れる命がある」
今日からも、私はいつもと変わらず私らしく、厚木の未来のために邁進してまいります。
11歳だった息子も、今では立派な大学生になりました。あの日の切ない瞳を、二度とさせないために。
そして、厚木に住むすべての家族の笑顔を守るために。
引き続きの温かいご支援を、心よりお願い申し上げます。

追伸:皆様へのお願い
こうして徹底した管理を行っておりますが、体調には波がございます。
もし会合や行事の途中で私が席を外すことがありましたら、「あ、今はお腹と対話している時間なんだな」と、温かく見守っていただけますと幸いです。
目に見えない病気と共に生きる一人として、これからも等身大の姿で活動してまいります。
厚木市議会議員:望月 真実(もちづきまみ)
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